この記事を読んでいるあなたは
- 麻雀の起源はいつなのか知りたい
- どこの国から発展したのか知りたい
- 初期はどんなルールでやっていたのか知りたい
上記のように考えているかもしれません。
この記事では、麻雀の起源についてお伝えしていきます。
麻雀の起源
はじめに、麻雀が生まれた年ともととなったゲームについて解説していきます。
1860年頃に中国で生まれたという説が有力
麻雀の起源には諸説ありますが、1860年頃に中国で生まれたという説が有力です。
中国において古くから遊ばれていた馬弔(マーチャオ)と骨牌(クーパイ)がもとになっています。馬弔・骨牌のルールも時代によって変化していて、同種牌の増加や風牌・三元牌の追加があったことにより、麻雀という新しいゲームが生まれました。
「麻雀」という表記は日本で作られたもので、中国では馬将や麻将と表記されていました。現在の中国では「麻将」が一般的です。
馬弔とは
馬弔とは、明の時代から中国で遊ばれていたとされるカードゲームです。
40枚を1セットとして、十萬貫・萬貫・索子・文銭の4種類があり、十萬貫と文銭は11枚、萬貫と索子は9枚という内訳で構成されていました。
それぞれのカードには強弱があり、十萬貫の中では萬々貫が最も強く、千萬貫→百萬貫→九十萬貫…といったように二十萬貫まで下がります。文銭の場合は、空湯が最も強く、枝花、一文と続き、その後は数字の2~9の順となります。
麻雀というよりは、トランプゲームに近い構成になっていたということですね。
ただ、上記はあくまで麻雀のもとになった馬弔であって、現在中国で遊ばれている馬弔は構成や枚数が異なります。
骨牌とは
骨牌とは、サイコロ遊びから発展したゲームで、牛骨・象牙・竹・木などで作った牌で遊びます。
32枚が1セットとなっていて、11・13・15・16・22・33・44・46・55・56・66の牌が2枚ずつ、12・14・23・24・25・26・34・35・36・45が1枚ずつで構成されていました。
66は天牌、11は地牌、44は人牌と呼ばれていて、麻雀との深いつながりを感じます。
骨牌の別名として、搶結・打四虎・打天九などがあり、現代でいうと天九牌の構成がこの頃の骨牌と同じです。
麻雀が各国へ浸透するまで
つづいて、麻雀が中国から世界に広がった経緯を解説していきます。
諸説あるのでいくつか紹介します。
中国に居た軍隊から世界に広まったという説
麻雀が生まれた1860年頃、中国は鎖国から開国へと向かう転機のときでした。
麻雀という遊びは中国政府に認められて、浙江省寧波市は麻雀発祥の地として発展。寧波市に駐留していた外国人も、麻雀で遊ぶようになります。
その後、自国に帰った軍人たちが麻雀を広めたため、世界的に認知されるゲームになったと言われています。
船旅の暇つぶしとしてアメリカに広まったという説
上海からアメリカまでの航路を通じて伝播していったという説です。
長い船旅だったため暇つぶしとして中国人から麻雀が提案され、アメリカ人に伝播していったという流れのようです。
船上はアメリカ人の比率が大きかったため、役名はすべて英語で呼称され、そのままアメリカに広まったと言われています。
論文で麻雀を発表しアメリカに広まったという説
1893年に遊戯研究の学者スチュアート・キューリンが論文にて麻雀を紹介、その後ジョセフ・P・バブコックが麻雀牌の販売を開始したことでアメリカに麻雀ブームが起こったという説です。
はじめに上級貴族にヒットし、パーティーの二次会と言えば麻雀、ホテルには専用の麻雀ルームが設けられる、というほどに定番のゲームとなりました。
ヨーロッパへはイギリスを通じて広まったとされる
インド・ヨーロッパ航路によって、イギリスを経由してヨーロッパ全土に広まったという説です。
上流階級の遊びとして広まり、社交界では必須の遊びとなっていたとされます。
日本における麻雀の歴史
つづいて、日本における麻雀の歴史を解説していきます。
日本では1909年頃に上陸
麻雀が日本に入ってきたのは、1909年頃と言われています。
はじめに飛びついたのは上流階級の人と文人で、菊池寛・久米正雄・里
見とんなどは初期から麻雀に熱中していたとされます。
一般に広まったのは1924年頃と言われている
日本で一般家庭にまで麻雀が広まったのは、関東大震災後の1924年頃と言われています。
雑誌や新聞を通じて麻雀というゲームの存在やルールが認知されるようになり、麻雀手引書の発行や同好会の発足などと相まって広く認知されていきました。
この頃になると、小説に麻雀シーンが出てきたり、文藝春秋の記事として麻雀が特集されたりと、初期に麻雀に触れていた文人から情報が発信されることも増えています。
1927年からは雀荘が一気に増えて大ブームに
日本ではじめて開業したのは1924年と言われていますが、1927年に銀座で貸卓雀荘「南山荘」が開業して大繁盛したのを皮切りに、次々と雀荘がオープン。1929年には東京だけで1,500軒以上の雀荘が開業し、大ブームに発展します。
1931年に開催された全国麻雀選手権大会では500名以上の参加者が殺到し、当初予定していた日程では収まらなかったというエピソードもあります。
1969年からは第二次麻雀ブームを迎える
一度は大ブームを起こした麻雀ですが、増加しすぎた雀荘に対して取り締まりが厳しくなったことや、戦争の影響などによって徐々に人気は低下しました。
しかし、1969年に阿佐田哲也による『麻雀放浪記』の連載が開始されると、再び熱狂的な麻雀ブームが始まります。
麻雀専門雑誌『近代麻雀』の刊行やプロ団体の設立、タイトル戦の開催もこの頃から始まっています。
麻雀ルールの変化
最後に、日本に麻雀が入ってきてから、ルールがどう変わっていったのか解説します。
初期に遊ばれていたのはアルシーアル麻雀
麻雀が広まったばかりの日本では、アルシーアル麻雀が主流でした。
アルシーアル麻雀は、
- 基本符を20符として計算
- サイド精算あり
- リーチ・ドラはなし
- フリテンなし
- 場の2翻はつかない
- 最高点は満貫
- ツモ和了・ロン和了に関わらず3人払い
といったルールの麻雀です。
リーチ麻雀は第二次麻雀ブームのときにスタート
現在の主流となっているリーチ麻雀が生まれたのは、昭和に起きた第二次麻雀ブームのときです。
中国式麻雀の一部ルールを日本独自のものに修正し、ゲーム性は大きく変わりました。中でも変化が大きかったのは、リーチの誕生・フリテンアガリの禁止・放銃の責任払いの3つです。
リーチの誕生によって戦略性が広がり、フリテンアガリの禁止によって河の整理整頓がされるようになり、放銃の責任払いによって危険牌読みやオリといったテクニックが生まれました。
麻雀は1860年頃中国で生まれたテーブルゲーム
麻雀は、中国で古くから遊ばれていたカードゲームとサイコロゲームが融合して生まれました。
今でこそ一般にも流通していますが、日本やアメリカ、ヨーロッパどの国でも、上流階級が遊ぶ社交ゲームとして広まっているのが特徴です。
各国に広まった後は、それぞれ独自の変化を遂げており、アメリカではジョーカー牌と呼ばれる特殊牌がある、配牌後に牌の交換をおこなうルールがある、というようにゲーム性が若干異なります。
日本でも、流通初期の大正時代こそ中国式ルールを採用していましたが、昭和には現在の主流であるリーチ麻雀に切り替わっています。